長かった戦争に別れを告げた昭和20年8月15日。
翌21年元旦には天皇の人権宣言、11月には日本国憲法が公布されるなど、日本再建への第一歩が踏み出されました。
静岡大空襲によって市街地の大半を焼失した静岡市の人々の生活は破壊され、食糧難、アメリカ軍の進駐、農地改革、新円切替など、混沌とした社会情勢の中で戸惑いを感じながらも、平和な未来への新たな希望を抱いて、たくましく歩み出していったのです。
昭和25年の御幸町。御幸通りがやけに広く見えるのは、高い建物が市役所のドームぐらいしかないからだろう。通りには車もなく、人々が歩いている姿が何とものどかだ。通りの左側の大きな建物は郵便局本局、手前右が観光会館。
昭和20年代後半頃、駅前からこんなにはっきりと富士山が見えていた。松坂屋がモダンな雰囲気をかもし出している。駅前ですら交通信号はなく、ロータリーとなっていた。
小梳神社上棟 昭和25年11月
昭和26年4月3日、廿日会祭(はつかえさい)の御幸町のお踟(おねり・山車)
小梳神社落成式 昭和27年3月18日
昭和28年の駅前、紺屋町通りの入口には富士山ネオンがあり市民だけでなく観光客からも親しまれた。駅を降りるとすぐ目の前にあり繁華街の入口として観光客にも親切だった。
昭和28年頃、御幸通りの両側にはまだ木造の家屋が軒を連ねていた。城内(現在の駿府城公園)には、まだ兵舎があった。